分部 光命(わけべ みつなが)は、江戸時代中期の大名。近江国大溝藩6代藩主。分部家7代。官位は従五位下・和泉守、若狭守。
生涯
正徳4年(1714年)1月8日、5代藩主・分部光忠の長男として誕生。母は側室の谷氏で、嫡母(父の正室)である田村氏(田村誠顕の娘)に養われた。
享保14年(1729年)2月28日、16歳で徳川吉宗に御目見。享保16年(1731年)、父の死を受けて、5月6日に遺領相続が認められる。同年12月23日、従五位下和泉守に叙任。享保18年(1733年)4月15日、初めて領国入りするための暇を与えられる。延享元年(1743年)5月12日、若狭守に遷る。
延享4年(1747年)には城下で大火が発生し、6町170軒が焼失する大きな被害を出した(「大溝の大火」と呼ばれる)。寛延2年(1749年)にも56軒を焼く大火が発生している。
宝暦4年(1754年)9月7日、長男・光庸に家督を譲って隠居。宝暦10年(1760年)には病気療養を理由に摂津国有馬温泉にて保養した。
明和6年(1769年)に剃髪して風斎と号する。天明3年(1783年)11月17日、大溝において死去。享年70。
系譜
特記事項のない限り、『寛政重修諸家譜』による。子の続柄の後に記した ( ) 内の数字は、『寛政譜』の記載順。
- 父:分部光忠
- 母:谷氏
- 側室:某氏
- 長女(1):松平堅房正室
- 側室:今村氏
- 長男(2):分部光庸
- 側室:某氏
- 二男(3):三淵澄鮮 - 熊本藩士三淵澄定の養子
- 二女(4) - 角倉玄寿室
- 三女(5) - 熊本藩士長岡営之(松井営之)室
- 三男(6):三淵澄盈 - 実兄・澄鮮の養子
- 四女(7) - 家臣恒川忠栄室
- 四男(8):施薬院宗顕 - 施薬院宗隆の養子
- 五男(9):中条康永 - 尾張藩士中条康隆の養子
- 六男(10):分部命誠
補足
- 『寛政重修諸家譜』では、光命の項に「室」(正室)の記載がない。
- 三女が嫁いだ松井(長岡)家は、熊本藩筆頭家老・八代城代を務め、3万石を知行する家である。営之の孫にあたる存之(家督相続前に死去)も分部家から妻を迎えている。
- 二男と三男が入った三淵家は、熊本藩で5000石を給され家老を輩出する家である。
- 五男の中条康永は尾張藩の中条(中條)家1500石を継ぎ、のちに名古屋城代を務めた。武道の達人で、暴れる猪を乗り伏せたという逸話があるとともに、狩野派の画にも通じたという。
備考
- 大溝(現在の高島市勝野地区)で21世紀初頭も清酒醸造を続けている福井弥平商店の銘柄「はぎの露」は、創業時の藩主であった光命が「萩乃露」と命名したのが由来であるという
脚注
注釈
出典
参考文献
- 『寛政重修諸家譜』巻第三百九十二
- 『寛政重修諸家譜 第三輯』(国民図書、1923年) NDLJP:1082714/12
外部リンク
- デジタル版 日本人名大辞典 Plus『分部光命』 - コトバンク




