藤原 行隆(ふじわら の ゆきたか)は、平安時代後期の貴族。葉室行隆とも呼称する。藤原北家勧修寺流、権中納言・藤原顕時の長男。官位は正四位下・左大弁。

経歴

初め中宮大進として美福門院に仕え、のちにその養子であった二条天皇に仕えて、永暦元年(1160年)五位蔵人、長寛3年(1165年)左少弁を歴任する。しかし、同年に二条天皇が崩御し、翌永万2年(1166年)二条親政派が瓦解すると行隆は解官されてしまい、以後長年に亘って不遇を託つ。

治承3年(1179年)に平清盛によるクーデター(治承三年の政変)が発生すると、右中弁・平親宗と右少弁・平基親の2名の弁官が解官されたことに伴って、清盛の推挙を受けて左少弁に還任するとともに、安徳天皇の五位蔵人となる(この経緯は平家物語の「行隆之沙汰」の段に詳しい)。その後は、治承5年(1181年)従四位下・権右中弁、寿永2年(1183年)右中弁、寿永3年(1184年)左中弁、元暦2年(1185年)正四位下・右大弁と弁官を務めながら順調に昇進する。

この間、山城守を務めたほか、養和元年(1181年)には造東大寺長官に任ぜられ、平家の南都焼討によって焼失していた東大寺の復興を担当した。造東大寺大勧進職に就いた重源と協力し任務に当たったものの、事業の完成を見ることなく死去してしまったことから、重源は生前の行隆の尽力に報いるために、彼の遺族を東大寺領である備前国南北条荘の預所に任じている。

文治2年(1186年)左大弁として弁官の筆頭に昇るも参議には任ぜられず、下僚の右大弁・九条光長が先に参議となっている。翌文治3年(1187年)3月17日卒去。享年58。最終官位は左大弁正四位下兼造東大寺長官。

官歴

『弁官補任』による。

  • 時期不詳:従五位上。治部大輔。中宮権大進
  • 永暦元年(1160年) 10月4日:五位蔵人
  • 時期不詳:正五位上
  • 長寛3年(1165年) 正月23日:権左少弁(依位次越右少弁長方)。6月25日:止蔵人。8月17日:左少弁
  • 永万2年(1166年) 4月6日:解官
  • 治承3年(1179年) 11月17日:左少弁(還任)。11月18日:五位蔵人
  • 治承4年(1180年) 6月28日:兼山城守
  • 治承5年(1181年) 6月26日:造東大寺長官。9月:被止山城国務。12月4日:従四位下、権右中弁、即山城守、還昇
  • 寿永元年(1182年) 11月23日:従四位上
  • 寿永2年(1183年) 12月10日:右中弁
  • 寿永3年(1184年) 9月18日:左中弁
  • 元暦2年(1185年) 正月20日:正四位下。12月29日:右大弁
  • 文治2年(1186年) 12月15日:左大弁、造東大寺長官如元
  • 文治3年(1187年) 3月17日:卒去(左大弁正四位下兼造東大寺長官)

系譜

  • 父:藤原顕時
  • 母:藤原有業の娘
  • 妻:美福門院女房越前(典薬助藤原行兼の娘)
    • 男子:藤原行房
    • 男子:藤原行時
    • 男子:藤原行長
    • 男子:藤原行方
    • 五男:葉室宗行(1174-1221) - 藤原宗頼の養子
  • 生母不明の子女
    • 男子:覚顕
    • 男子:源雅
    • 男子:信空(1146-1228)
    • 男子:重喜

脚注

参考文献

  • 飯倉晴武校訂『弁官補任 第一』続群書類従完成会、1983年
  • 『尊卑分脈 第二篇』吉川弘文館、1987年

吾妻鏡 写本吾妻鏡 巻一 治承五年(1181) 七月の02

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