ニコラス・アルトロック(Nicholas Altrock, 1876年9月15日 - 1965年1月20日)は、アメリカ合衆国オハイオ州シンシナティ出身のプロ野球選手(投手)。左投両打。
経歴
シカゴ・ホワイトソックスに在籍していた頃の1904年から1906年という短い間、活躍した投手の一人だった。1906年はレギュラーシーズンにおいて20勝13敗、防御率2.06を記録し、同年のワールドシリーズではシカゴ・カブスに対して1勝1敗、防御率はシリーズ最高の1.00を記録し、ワールドシリーズ制覇の原動力となった。
1906年シーズン後に腕を痛めたことにより選手生命を棒に振り、1908年以降はほとんど投げることがなくなったが、それでも1924年までホワイトソックスとワシントン・セネタースにて投手を務め、さらに1933年に57歳になる時までたまに代打で出場した(その時の相手の中には、フィラデルフィア・アスレチックスのルーブ・ウォルバーグもいた)。
1912年にセネタースのコーチとなり、ワシントンD.C.にて1953年までの42年間を過ごした。これは、メジャー史上、同じフランチャイズにて連続した期間をコーチを務めた最長記録である。
コーチ時代はアル・シャハトとともにコーチャーズボックスでおどけたことで「野球界のピエロの王子」として知られるようになった。球団の公式マスコットによるフィールドでのコミカルなアトラクションが行われるようになるのは、これから10年以上後のことである。シャットとアルトロックはおふざけをコミカルなアトラクションによるヴォードヴィルの域にまで高めたが、皮肉にも二人はコラボレーションを積み重ねていくうちに個人的な悪感情を募らせてしまい、最終的にはフィールドでお互いに口を利かないようになってしまった。彼らがジャック・デンプシーとジーン・タニーの世界ヘビー級タイトルをかけた有名なボクシングの試合を真似た際、お互いに雨のようにパンチを浴びせ、まったく手加減していないように見えたという。
セネタースのコーチ時代、アルトロックが言ったとされる次のような皮肉が野球に関するいくつかの書籍に収められているが、作り話の逸話である。ある打者が放った打球がスタンドに入ったが、それがフェアなのかファウルなのかわからなかった。普段からアルトロックにからかわれていた審判は宣告を行い、直後に女性がスタンドから担架で運ばれてきた。審判は、打球が女性に当たったのかとアルトロックに尋ねた。すると彼ははっきり聞こえる声でこう言った。「いや。君の宣告によって女性はショックで意識を失ったんだよ。」
メジャーリーグにてプレーした最後の年となった1933年当時、彼はそれまでにメジャーに在籍した選手の中で史上2番目に高齢の選手となっていた。
1965年1月20日、ワシントンD.C.にて88歳で死去。
詳細情報
年度別投手成績
- 「-」は記録なし
- 通算成績の「*数字」は、不明年度がある事を示す
年度別守備成績
- 各年度の太字はリーグ最高
記録
- ワールドシリーズ出場:3回 (1903年、1906年、1924年)
- シカゴ・ホワイトソックスにおける、9イニングあたりの与四球数の最小記録(1.49)
- 一つのフランチャイズでコーチを務めた、MLBにおける連続最長記録(1912年から1953年までの42年間)
参考文献
関連項目
- メジャーリーグベースボールの選手一覧 A
外部リンク
- 選手の通算成績と情報 ESPN、Baseball-Reference、Fangraphs、The Baseball Cube、Baseball-Reference (Register)
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