斎藤 信太郎(齋藤、さいとう しんたろう、1843年6月15日(天保14年5月18日)- 1915年(大正4年)5月5日)は、明治から大正初期の農業経営者、実業家、政治家。衆議院議員。斉藤(齊藤)と表記する事例有り。
経歴
陸奥国伊具郡耕野村(宮城県伊具郡耕野村を経て現丸森町耕野)で、素封家・斎藤広重の息子として生まれた。経済学を修めた。伊具郡丸森村(現丸森町)の斎藤茂吉の養子となり、農業を営む。
1873年(明治6年)小学校の創設に尽力した。1874年(明治7年)蚕種組合頭取に就任。その他、丸森村学務委員、同村養蚕業頭取、伊具郡会議員、所得税調査委員、地方森林会議員、隅口蚕業組合頭取なども務めた。
1879年(明治12年)1月、第1回宮城県会議員選挙に当選し、1880年(明治13年)1月まで在任。同年9月に再選され、1898年(明治31年)3月まで務め、さらに1899年(明治32年)9月から1903年(明治36年)3月まで在任。この間、同参事会員、同副議長なども務め、産業、教育などの振興に尽力した。
1898年(明治31年)3月、第5回衆議院議員総選挙(宮城県第2区、准自由党)で当選し、山下倶楽部に所属し衆議院議員に1期在任した。
実業界では、宮城県農工銀行設立委員、奥羽水産運輸会社支配人などを務めた。
国政選挙歴
- 第1回衆議院議員総選挙(宮城県第2区、1890年7月、宮城政友)次点落選
- 第2回衆議院議員総選挙(宮城県第2区、1892年2月、国民協会)次点落選
- 第3回衆議院議員総選挙(宮城県第2区、1894年3月、国民協会)次点落選
- 第4回衆議院議員総選挙(宮城県第2区、1894年9月、国民協会)次点落選
- 第5回衆議院議員総選挙(宮城県第2区、1898年3月、准自由党)当選
- 第6回衆議院議員総選挙(宮城県第2区、1898年8月、無所属)次点落選
- 第7回衆議院議員総選挙(宮城県市郡部、1902年8月、帝国党)落選
- 第8回衆議院議員総選挙(宮城県市郡部、1903年3月、帝国党)落選
著作
- 『松平正直君治績概要』河東田寛林、1891年。
親族
- 実兄 斎藤喜平治(宮城県会議員)
脚注
注釈
出典
参考文献
- 大久保利夫『衆議院議員候補者列伝 一名・帝国名士叢伝 第3編』六法館、1890年。
- 『衆議院議員総選挙一覧 上巻』衆議院事務局、1915年。
- 衆議院事務局編『衆議院議員総選挙一覧 自第7回至第13回』衆議院事務局、1918年。
- 菊田定郷『仙台人名大辞書』仙台人名大辞書刊行会、1933年。
- 『総選挙衆議院議員略歴 第1回乃至第20回』衆議院事務局、1940年。
- 宮城県議会史編さん委員会編『宮城県議会史 第1巻』宮城県議会、1968年。
- 『宮城県百科事典』河北新報社、1982年。
- 衆議院・参議院『議会制度百年史 - 衆議院議員名鑑』大蔵省印刷局、1990年。
- 竹内理三ほか編『宮城県姓氏家系大辞典』角川日本姓氏歴史人物大辞典4、角川書店、1994年。



